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共同通信社社会部『沈黙のファイル──「瀬島龍三」とは何だったのか──』

瀬島龍三という人物が気になっていた。それは、父方の伯父の葬儀に、瀬島龍三が来て驚いた、と母から聞いたことがあったからだ。それを聞いた時はふーんぐらいにしか思わなかった。福島の片田舎で小さな商売をしていた伯父の葬儀に、伊藤忠商事のトップであり、政財界にも強い影響力を持つ瀬島龍三がわざわざ弔問に来るというのは、過去、余程の関係性があったに違いない。そんな思いでこの本を読みすすめると、何と伯父の証言が載っていた。戦後シベリア抑留でのエピソードだ。「52年3月、瀬島はソ連側から団長を解任された。21分所にいた元兵士の橋本新吉(73)によると「皆が無理な仕事を言いつけられないようソ連側と交渉した」ためだ。翌日から瀬島は橋本らと一緒に作業に出た」(共同 2025、258)。たったこれだけの記述だが、長期にわたる抑留生活で苦難を共にした関係性は言葉に尽くせないものであろう。

瀬島は戦前、陸軍大学校をトップで卒業したエリート中のエリートで、参謀本部作戦課という陸軍の中枢機関にいた。「天皇の命令「大本営命令」は作戦課が原案を作成する」(共同 2025、118)。つまりはあの戦争を始め、敗戦が必至となっても戦争を止めない決定をしたのは瀬島たちだ。その瀬島が敗戦時に満州でソ連軍に捕らえられシベリアに抑留。1956年帰国後、伊藤忠商事に入社。そこで瀬島はこの軍人脈をもとに韓国との戦後賠償ビジネスに暗躍。政界にも人脈を広げ、防衛庁に食い込んで戦闘機購入ビジネスなどをものにしていった。やがては「政界の影のキーマン」として金丸や中曽根らとも深く結びついていた。その姿には戦争への責任や反省など露ほども感じられない。「あの侵略戦争で三百万の日本人が無意味に死んだ。その『無意味な死』こそ弔う道を探すべきなのに、その苦しみの道から逃れようと逆に戦争の方を『正しい戦争』に偽造するんです」(共同 2025、298)。加藤典洋の言葉が重い。

共同通信社社会部、2025、『沈黙のファイル──「瀬島龍三」とは何だったのか──』、朝日新聞出版。

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