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差別的な言動をする人が「表現の自由」を盾にする。そんなことをうそぶく人を目にする度に呆然としてしまう。おそらく「表現の自由」を「何を言っても許される自由」ぐらいに思っているのだろう。
表現の自由は、自由権(国家からの自由)であり、国家(地方公共団体を含む)によって表現活動を妨害されない権利である。(市川 2024、22)
まさに、「表現の自由」とは権力の抑圧からの自由なのだ。本書では、表現活動への国家や地方公共団体の「援助」の拒否の事例を通じて問題を浮き彫りにする。そして、拒否の理由を「政治的中立性」に求める傾向があると指摘する。「『政治的中立性』という概念は、『憲法アレルギー』、『政治アレルギー』による直感的な表現活動制限を正当化するための便利な道具として使われてしまっている」(市川 2024、130)という。その結果、「国や地方公共団体の立場とは異なった意見はみな『政治的』とされてしまうおそれがある(中略)。表現行為を制限したり、表現行為に『援助』を拒否する口実として表現行為の「政治性」が持ち出されてしまう」(市川 2024、169)。同じような問題は放送についてもみられる。近年、政府が放送局に対して「政治的に公平であること」を強く求める傾向がよくみられる。その結果は、「表現の自由」の制限の問題である。「『政治的中立性』概念を通じての忖度によって表現の自由が制限されることの問題は、まず第一に、それが現状肯定、現状の無批判な受容につながるということである。(中略) 第二の問題点としては、市民を『政治』から遠ざける効果をもつという点が挙げられる」(市川 2024、230-232)。まさにこれが、今の日本社会で起きていることではないか。
市川正人、2024、『表現の自由──「政治的中立性」を問う──』、岩波書店。
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